2017年04月25日

忘我と無我‥

 昔から気になっていたことの一つ‥忘我と無我‥。

演奏するにあたって雑念があると集中できない。
更に“カッコ良く決めてやろう!”などと考えただけでズッコケル(ほとんど死語!?)‥。
そこで、いろいろなジャンルの演奏家たちに“どうやったら演奏に集中できるのか教えてください<(_ _)>”と尋ね続けていたのだが、要領を得なかった。

そんな日々の中、あるジャズのベーシスト(とても感じの良い演奏をする)から“う〜ん、そうね、まずは瞑想なんかから始めてみたら!?、またはクスリをやったら良いよ!!”と助言を受けた。
まさか‥クスリ?‥つまり薬物は‥避けた。

更にその後、ひょんなことで知り合った某宗教の高僧、なんと一橋大学卒のインテリなのだが“そうですか、本当の集中を知りたいんですね!? では、毎週最低2回は来てください、一緒に瞑想して邪念を捨て去る修行から始めましょう”とのことだった。以来、約1年間通い続けた。
ある日その高僧が“飯ヶ谷さん、そろそろ一人で瞑想できそうですので、何か気になることがあったときだけ来れば良いでしょう。”との嬉しいお言葉をいただいた。
あれからウン十年、残念ながら、まだ結論が出ていないというのが正直なところだ。

忘我と無我‥‥言葉の遊び?程度の違いしか実感できていない可能性が大、という状況なのだろう。
ごく稀に、普段とは違う緊張感、その後に来る集中感は何度か経験したことがある。
自分の音が遠くで鳴っている‥‥周りの音が遠くに聞こえる‥‥光の粒子が見える‥‥時間の感覚が薄れる‥‥などを感じたことがある。
興奮も無く、自分では淡々と弾いていた感じがしたが、常連の感想は“今日の飯ヶ谷さん、まるで別人だったよ!! すごく良かった、いつもこんな感じで弾いてくださいね!!”とお世辞にしても嬉しいお言葉を頂戴したことがある。
この時の感覚が無我の境地に近かったのかな‥‥!?

忘我‥‥これはアホやガキでも経験できるもので、ただただ夢中になって我を忘れること。
良く言えば、熱中, 必死, 没頭, 夢中、などの言葉と同様な気がする。
悪く言えば、ただ“その気”になってがむしゃらになること、でしかないだろう。

無我‥‥そもそもが仏教用語で、「我が無い」と「我ではない」(非我)の両方の解釈がなされるらしい。自分に捕らわれる心を超越した心、とも考えられている。
日常的に使われる“無我夢中”という言葉は、ある事にすっかり心を奪われて、我を忘れてしまい、他のことを考えられない状態、ということだが、忘我とどこが違うのだろう‥‥!?
無我の境地‥‥という言い方はあるが、忘我の境地という言い方は、あまりしないと思う。

何かを追求して行く中での「鮮明で集中した意識状態」を、とにかく経験したいという欲望、しかしこれも“我”の一つなのだが、“我”は自分で捨てるのではなく、いつのまにか無くなってるように感じる、とも言われている。修行が足りないのかも‥‥!?

経験者の言うには、無我の状態とはトランス状態とは異なるし、忘我の状態は“忘我混沌”の程度でしかないよ!!‥ということらしい。う〜ん‥‥脳が混沌としてくる‥‥。
無我の境地でギターを弾けたら、即、死んでも良いと思う今日この頃。
フラメンコで言う“ドゥエンデ”とやらは、無我の境地なのか、或は忘我の境地なのか‥‥経験してみたい。
さてさて、どうなることやら‥‥!?

徒然なるままに書いてみました。
とにかく‥‥まとまりがない<(_ _)>

posted by 飯ヶ谷 守康 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | タマ〜に書く日記
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